95.1.17阪神大地震 メモ未完

1.17(火)

am 5:46

未明の神戸・阪神間を空前の大地震が襲った。眠りにあった体を強い力がグァーと地獄の底に叩き込んだ。その瞬間、次には体は宙に引き上げられ、今度は、数度にわたってドカンドカンと家全体が激しく上下にたたきつけられた。
何が起こったのかわからぬままに、子供のいる部屋に向かって階段を駆け上がろうとして、廊下が奇妙な白い光で明るいことに気づいた。隣家が倒壊し、その白い壁を月の光が照らしていたのだ。一瞬のうちに世界が死んで、私だけが生き残らされてしまったという恐怖が身を包んだ。
「ナオコ・タスク、だいじょうぶか」、震えながらも大声で叫びつづけ、「だいじょうぶ」の声が恐怖のドン底から私を救ってくれた。さらに、階下の母親の部屋に飛び込んで、その安全を確認し、南側のカーテンをあけた。暗闇の中に到底信じられない光景が目前に広がっていた。一帯の家が倒壊して、奇妙に静かだった。
階段といわず床といわず、足元は周囲に並べてあったガラス・陶器・磁気の類が壊れて散乱し、足の踏み場もない状態で、家族五人は車座に座り、手元の座布団などで身を囲み、ひどい余震の中で朝を待った。電話で姉・妻の実家などの無事を確かめながら…。
夢とも現ともつかぬままのひとときが過ぎ、空はようやくに白み出し、懐中電灯・ラジオを捜し当てた頃に、ほどなく電気が復旧した。

*西村(N)の自宅横・前一帯の家屋は一瞬のうちに倒壊した。

am 6:30頃

暗闇の中でネクタイを締め、カフスを止め、いつも通りの服装を整えながらも、救急・警察への電話をかけ続けたが、不通のままで、ついにつながることはなかった。
間もなく、電気が復旧し、家の前に止めてあったタウンエースで私は直ちに学校に向かった。ライトに照らされた夙川堤防沿いの県道は亀裂・陥没・隆起が激しく、危険極まりない状態で、ハンドルを握る手に力がこもった。道沿いの7階建マンションがひっくり返り、5階建のビルは挫折し、夙川の橋橋はいずれも落橋の危険にさらされていた。
国道二号線の夙川橋の段差が激しく通行不能のため、阪急電車の夙川駅に戻り、さらに西に向かおうとしたけれど、倒壊家屋で不通。また、北方向にとって返し、苦楽園口に出て、河原宅の無事を確認し、声をかけることができた。そこから、岩園、そして六麓荘、芦屋川へと不通の場所を行きつ戻りつしながら行き交う車と互いの無事を確かめ、道路情報交換をしながらの手探り運転が続いた。芦屋川からさらに北に上がり、東灘区森北という山手・高台の全く無傷の地域を経て、ようやく7時過ぎ頃に「本山」にある学校に到着した。山手幹線から見える「学校」の姿に胸が騒ぎ、車のキーを締めるのももどかしく、学校の正面に立って、「学校は無事」の電話を自宅にいれた。
この間、カーラジオはつけっぱなしに鳴っていた筈のだけれども、聴いていなかったのだろうか、その内容に関しての記憶は全くない。

am 7:30頃

校舎が立っているだけで、十分であった。「先生、恐かった」、三谷が私の胸にしがみついてきた。さらに倒壊した下宿先のアパート・マンションから這いずり出してきたといった学生が呆然と立ち尽くし、改めて互いの無事を確かめあった。
隣のアパートは倒壊、向かいの五反田公園付近はすさまじく、人人は毛布にくるまって夢遊病者のように徘徊し、工事現場から、奥中左官店からヘルメットなどをひったくるように持っていく人人の動きが激しかった。隣家の東城・奥仲らと互いの無事を確かめ、本山付近の情報交換など立ち話。
程なく、梶屋が出勤してきて、ようやく、建物の中に入ることとなる。建物内部の惨状を一人で見ることに少しためらいがあって、時間待ちしていたというのが本音。
本校舎・玄関先には、水がかなり激しく流れ出していた。給水機が倒れ、水道管が切れて水が吹き出していたのであった。きっとウロがきていたのであろう「止水栓」を締めることを忘れて、ハンカチを水道管に詰め込んで、ようやくに漏水を食い止めた。事務室内は、ほんの二・三冊を除き書棚の本もパソコンもことごとく床に散乱し、机の高さ一杯に埋まっていた。とりあえず水に浸かった本を救いだしながら、ようやく入口の一角に座る場所を確保した頃には、時計は9時をすぎていたように思う。
事務室には、電話が入り鳴り続けるのだが、電気の切れた状態ではうまくつなげることができず、結果、私たちはほとんど情報的に孤立した状態のまま、時間だけが経っていった。
10時頃には下宿をたたき出された学生などがさらに集まりだし、自動販売機を起こしたり、耐火ロッカーを元の位置に戻したり、さらに事務室の復旧につとめた。行き場を失った下宿生に、校舎二階を避難所として解放することにしたので、毛布や布団の持ち込みが始まった。隣のアパートの住人や五反田公園の人人の緊急避難場所として教室を解放するべきなのかなという思いが頭をかすめた。しかし…避難所としての管理問題が発生するのではないか?管理上の問題として人的配置・火気管理など放置できないテーマが起きるのではないか…。
私は、いったん家に戻ることとした。タウンエースで、来た道を戻った。途中、水谷から携帯電話が入り、森・清水などの無事を知ったように思う。私からは「中川の安否確認をするよう」伝えた記憶がある。
自宅と河原宅で各各四名くらいずつの宿泊が可能であることを確認して、再び学校に戻ったのは、2時くらいであったろうか。
週末に振り出した小切手の決裁のため、三和銀行岡本店に出かけたのだが、阪急・岡本駅付近は生気を失って人通りは殆どなく、銀行は閉まったままであった。生協横の道に20〜30人くらいの列ができているので、何のために並んでいるのかと問うと、「缶ジュースを売ってくれる」とのこと。なるほど、と合点した。
その時になってはじめて、私たちは「水」を確保しなければならないのだということに気づいたように思う。 急いで学校に戻り、学校の保管している缶ジュース類をタウンエースに積め込ませ、余ったコーヒ・スープ・紅茶等など4〜5ケースを学校前に並べ、隣家・アパートの住民に提供した。


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西村公男 Nishimura Kimio
E-mail nishimura@aicoh.ac.jp